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そして「終末期なんだから、今さら」というような表現が、とくに医師以外の人から、わりあい簡単に発せられる。
だからこそ苦痛が少なく無残な印象を残すことのないように、という希望が出てくるに違いない。
したがって、「終末期」状態という判断が確立していることが、ターミナルケアの絶対的な前提条件だ。
ところがこの大前提ともいうべき「終末期」の判断が、じつはなかなかむずかしい。
 そもそも「終末期」というのは、どういう状態を指すのだろうか。
その患者さんが、あとどれくらい生きられるのかという判断は、一般的に考えられているよりも、じつはずっとややこしいのである。
たとえば、がん患者の場合でも、映画や小説などのフィクションの世界によくあるような、こういう状態になったらあと何力月の命、というように、個々の患者の余命を正確に判定できるような客観的な判断基準は、現実には存在しないといってよい。
  「終末期状態」ということは、「もう長くない」ということと同義だと、誰しもが受け取ることだろう。
主治医が患者の家族から、「あとどれくらいもつでしょうか?」と、切りだされることはしょっちゅうだ。
だが、この問いに確信をもって答えることが至難の業であることに、経験ある臨床医なら誰しもが同意するだろう。
 家族からしつこく判断を求められてたまりかね、苦し紛れに告げた日数が見事に外れ、モゴモゴ言い訳をする体験を何度もすると、じつにむずかしいものだと身に染みるようになる。
見かけ上は本当に悪化しているように見えても、けっこう長生きされる方もたくさんいるし、その逆もある。
 ターミナルケアの論議のなかで、家族の意向に反して医療側か強引に延命処置を継続し、「むごくてみていられなかった」と、医師がものごとを機械的に考えてしまい、患者の家族の意向を無視することが問題の元凶である、と指摘する向きがある。
しかし、医療の現場はそれほど単純化できるものではない。
医療側の強引さだけが問題なのだろうか。
 問題のむずかしさのひとつは、延命治療の方針を転換させようという時期判断そのものがじつは主観的要素が多く、関係者のあいだで食い違うことにある。
医師のあいだでもそうだし、看護婦のあいだなどでも、そうとう食い違うのが常だ。
もちろん家族のあいだでもそうだ。
考えてみれば、個々人の人生観や、本人との関わり合いの長短、とくに本人の性格や生活の歴史をどのくらい知っているかによって、こういう食い違いというものは生じるのが当然である。
 では、じっさいの医療現場ではどうか。
話の前提となる、終末期かどうかの医学的判断材料を提供できるのは医師しかいないのだから、やはり医師がすべての判断をリードするしかない場合がしばしばある。
しかし、「どんな状態でもよいから、一日でも長く生かしてほしい」という希望を持っている家族も、じっさいにはたくさんいるから、家族と付き合いの短い場合など、こういう微妙な判断を自分から切り出すことに躊躇するのは当然である。
 じつは医療側としては、(もちろん本人の意思表示があるといちばんよいが、意識のない場合は)家族から統一された意見として、はっきりと治療方針についての希望が出されればいちばん判断しやすい。
またこれからはそうあるべきだという時代になるだろう。
 しかし、いざそのときになると、本人には意思表示ができなくなっていることも多いから、ここから、いわゆる「リビングーウィル」(「生前発効遺言」、回復の見込みがなくなった場合には、延命処置をとらなくてもよい旨の意思を、生前に明らかにしておくこと)を用意しておくべきではないかという発想が出てくる。
 しかし「リビングーウィル」にも問題は多い。
「回復の見込みがなくなったら」、「タラタラ延命処置を長引かせないで下さい」というような本人からの抽象的な表現では、きびしい判断を迫られつつ、全責任を負っている主治医の決断の役には立だない。
 反復するが、まず「その人の人生にとって終末期である」という判断が非常にむずかしい。
 つぎに「延命処置をしなくてもよい」とはいっても、いっさいの治療処置を中止するのか、部分的に中止するのか。
その一方で「苦痛なく死ねるように、必要な処置はやってもらいたい」とのことだろうから、ここでは部分的に治療処置を停止するということだろう。
ところが部分的な処置の中止、というのは、じつは非常に判断がむずかしい。
苦痛を緩和する処置は、もちろんやってもらわなくては困るというわけだが、苦痛を和らげる手段がすなわち延命処置につながる、ということも、けっこう多いのである。
 あるいは、人は年齢とともに考えが変わるはずである。
若い時代よりも、むしろ年をとるほどに、生命に対する執着が強くなることがしばしばある。
一〇年も前に書かれ、色褪せてしまった「リビング-ウィル」がひょっこり見つかったとしても、それが有効であると関係者の全員が納得することはむずかしい。
 しかし、それでも「リビング-ウィル」は、やはりないよりはあったほうがよいようだ。
たとえば「日本尊厳死協会」が一九九六年二月におこなった会員の遺族へのアンケートでは「リビング-ウィル」を示した二八七人のうち、九六%の二七六人が「医師は協力的だった」と感じていた、という結果がでている(『読売新聞』一九九六年六月二日)。
 日本医師会が出した、『「説明」と「同意」についての報告』のなかでも、この問題について意識調査をおこなった二〇〇〇名をこえる医師のうち、七〇%以上が、「リビング-ウィル」について「医師は尊重すべきである」と回答している。
大部分の医師は、患者や家族からの意向があれば、それを尊重したいと思っているのである。
 さらにいえば、じっさいには「リビング-ウィル」よりも、「その時」に際して、家族のなかにしっかりと責任を持って決断できる人がいるかどうかが重要である。
私自身の経験でも、こういう微妙な判断について、きちんとした考えで、家族のなかの議論を力強くリードできる人、家族から全権を委任された、「しっかりとした人」がいるのが医療側としてはいちばん助かる。
 どこからみても、「終末期」という判断をするのは、原理的にたいへんむずかしいことなのである。
それでも現実に医療の場で、ターミナルケアが実行されていることは周知の事実である。
 では医療の現場では、じっさいにはこの問題をどう解決しているか。
要するに雰囲気が「熟する」のを待って、まず医師が切り出すことによって、関係者全員の「終末期」だという合意が形成されるのが現実である。
これはどうみても、医学的判断とはいえない。
 「過剰医療」と「救命至上主義」について さてここで、「ターミナルケア」論議においてしばしば批判の的となる、「救命(延命)至上主義」というものを考えてみよう。
 ターミナルケアはいかにあるべきかという論議は、終末期患者への扱いがたいへん粗末な状態になっている、つまり「終末期」と考えられる患者の療養生活の快適性が非常に悪い、入院したときの「生活の質」がたいへん低い、ということから出発すべきだと考える。
 ところが「ターミナルケア」の問題について、マスメディアが常に好んで引き合いに出してくるのは、いわゆる「過剰医療のむごさ」である。

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